母が「この家、私が元気なうちに売ってしまおうと思うのよ」と言ったのは、七十八歳の誕生日を迎えて三日後の夕方だった。
台所で茶を淹れていた私の背中に、ふっと投げかけられた言葉だった。私は振り返らなかった。振り返ったら、母がどんな顔をしているのか見てしまうからだ。見てしまったら、私はきっと「そんなこと言わないで」と言ってしまう。言ってしまったら、母が何か月もかけて温めてきた決意を、私が一瞬で押し戻してしまう気がした。
母は続けて言った。「あなたたちに迷惑かけたくないの。私がボケてからでは遅いのよ」。
その言葉を聞いて、私は急須を置いた。手が震えていた。震えている理由が自分でも分からなかった。母の気持ちを尊重したい気持ちと、この家がなくなることへの抵抗と、いつかこの話を自分から切り出さなければと思っていたプレッシャーが消えた安堵と、それらが一度に胸に押し寄せていた。
私は茶を運んで、母の向かいに座った。母はテレビを消していた。テーブルに、銀行からもらってきたらしい資料が何枚か置かれていた。母は私より先に、自分で調べ始めていたのだ。
「お父さんが建てた家だから、売るのはつらいでしょう」と私は言った。母は少し笑って、「つらいけど、つらいままでいいのよ。つらさを抱えたまま決めることも、人生にはあるから」と答えた。
私はその言葉を、今でもときどき思い出す。仕事で行き詰まった時、人生の選択に迷った時、母のあの静かな声が耳の奥で響く。つらさを抱えたまま決めること。その覚悟が、人を前に進めるのだと。
母が家を売りたいと言った理由は、複数あった。一つは、兄との関係だった。兄は東京に出ていて、父の葬儀の後もあまり帰ってこない。母は、自分が亡くなった後、私と兄がこの家をめぐって揉めることを心配していた。もう一つは、母自身の老後だった。近所のデイサービスに通い始めた母は、自分がこの家で一人暮らしを続けることの限界を、少しずつ感じ始めていた。
「老人ホームに入る時期を、自分で選びたいの」と母は言った。「子どもたちに決めさせるのは申し訳ないから」。
私は母のその言葉に、黙ってうなずいた。うなずきながら、自分が情けなかった。母はもう何年も前から、一人で考えていたに違いない。あの夜も、あの朝も、一人でテーブルに座りながら、この家のことを、私たちのことを、考え続けていたのだ。
私はそれに気づいていなかった。あるいは、気づかないふりをしていた。母がたまに「家の維持、大変になってきたわ」と漏らしても、「まだ大丈夫でしょ」と流していた。母が庭の草取りをしなくなったことも、台所の蛇口の水漏れを放置していたことも、私は見て見ぬふりをしていた。
母にとって家を売ることは、過去を手放すことではなく、未来の家族を守ることだったのだ。そして私にとっては、母が一人で抱えてきた重さに、ようやく気づいた日でもあった。
それからの数か月、私は母と二人で、少しずつ家の中のものを片付け始めた。写真、手紙、着物、台所の道具、父の本。一つひとつを手に取りながら、母は静かに話した。父と出会った頃の話、私が生まれた日の話、兄が初めて学校から逃げ出した日の話。
家は、記憶の容器だった。容器を空にしていく作業は、記憶を失うことではなく、記憶を自分の中に移し替える作業だった。
片付けるたびに、私は母に聞いた。「これは捨てていい?」。母はたいてい笑って「いいわよ」と答えた。けれど、たまに長い沈黙があった。沈黙の後に「捨てていいわ」と言った時は、私は何も言わずに、そっとその品を別の箱に移した。捨てていいと言っていても、捨てたくないものがあることぐらい、分かっていた。
兄にも電話で状況を伝えた。「母さんが家を売ると言っている」。電話の向こうで、兄は長い沈黙の後に「母さんが決めたなら、それでいい」とだけ言った。もっと何か言ってほしかった。けれど兄も兄で、何を言えばいいか分からなかったのだと、後になって思った。
ある日、押し入れの奥から、母が若い頃に書いた日記が出てきた。母はそれを開いて、少し長く黙った後、「これは持っていく」と言った。「家は手放すけど、言葉は持っていくの」。
私はその言葉の強さに、少し泣いた。
家を売る日が近づくにつれて、母は不思議と穏やかになっていった。「意外とすっきりするものね」と母は言ったが、私にはその言葉の裏にある痛みが分かっていた。母は痛みを隠しているのではなく、痛みごと受け入れていた。受け入れたうえで、前を向いていた。
最後に家を見に行った日、母は玄関で靴を脱いで上がり、すべての部屋を一つずつ回った。何も言わなかった。ただ、居間の窓から庭を眺めた時に、ほんの少しだけ目を閉じた。その数秒間に、母が何十年分の何を見ていたのか、私には想像することしかできない。
母が元気なうちに家を売るという決断は、家を手放す痛みと、家族の未来を守る安心を、同じ重さで抱え続ける決断だった。私はその重さを、母と一緒に背負わせてもらえたことを、今でも静かに感謝している。
