「急いで売る必要はないので、高く売れる時期を待ちます」
そう言い続けながら、私は内覧の予約をキャンセルし続けた。
離婚の財産分与として受け取った家だった。今は別の場所で賃貸に住んでいる。
子どもは独立している。あの家に、私が帰ることはない。頭ではわかっていた。
それでも、内覧の話が出るたびに理由をつけた。外壁のことが気になる。庭が荒れている。もう少し待ちたい。
担当の人に「踏み切れない理由はありますか」と聞かれたとき、「急いでいないだけです」と答えた。
ある朝、庭の桜が咲いていた。
あの家で何年も見てきた桜だった。結婚した年も咲いていた。子どもが生まれた年も。関係が冷え切った年も、桜はこうして咲いていたんだと思う。
しばらく眺めていて、ふと気づいた。
急いでいなかったのは本当だった。
でも本当のことは、もうひとつあった。あの家を手放すことは、あの生活が終わったと認めることになる。それを先延ばしにしていたのだと思う。
桜を見ながら、もういいかな、と思った。はっきりした理由は言葉にできない。ただ、そう思えた。
担当の人に電話して「次の内覧、受けます」と伝えた。
