「まだ情報を集めている段階なので」

そう言いながら、私はノートを出した。路線価、固定資産税評価額、近隣の取引事例。1年かけて調べてきた数字が、びっしり書き込まれていた。


父が亡くなって実家を相続した。兄がいるが遠方に住んでいて、「任せる」と言った。好きにしろ、と。

調べれば調べるほど、わからないことが増えた。一つ解決すると、三つ新しい疑問が出てくる。

だから「まだ足りない」と思い続けた。情報が揃えば、きっと判断できる。そう思っていた。


「これだけ情報をお持ちなのに、決められない理由は何でしょうか」と担当の人に聞かれたとき、手が止まった。ペンを握ったまま、ノートの表面を見つめた。

「一人で決めるのが怖いんです」

その言葉が出てきたとき、少し驚いた。自分でもわかっていなかったから。


何千万円もする家のことを、一人で決める。兄は「任せる」と言うが、任せられる側の重さを知っているのだろうか。

友人に相談しても「不動産のことはわからない」と言われる。完璧な情報があれば一人で判断できるはずだ。そう思って調べ続けていた。

でも本当は、ノートが厚くなるほど、孤独が積み上がっていた。


お盆に兄が帰ってきた。久しぶりに一緒に実家を見て回ると、兄が「こんなに傷んでたんだな」と言った。

電話越しでは伝わらなかった現実を、兄は初めて目にした。

「一人で抱えさせてごめんな」と兄が言った。その一言で、力が抜けた。別に兄に決めてほしかったわけじゃなかった。ただ、一人じゃないと思いたかっただけだった。


次に担当の人に会ったとき、ノートを持っていかなかった。

「兄と話して、二人で決めます」と言った。それだけで、不思議と前に進める気がした。