「売る気はないんです。ただ、一度査定だけしていただけたらと思って」

電話口でそう言いながら、少し恥ずかしかった。

売る気もないのに連絡するなんて、非常識かもしれないと思っていた。


夫の両親から相続した家だった。

夫は「売らなくていい」という人で、私もそのつもりでいた。

ただ、なんとなく気になっていた。何がどうなんとなくなのか、うまく言葉にはできなかった。

「査定だけ」という言葉を使えば、売る気のない私が連絡しても許されるような気がした。


訪問してきた担当者は、急かさなかった。

いつ相続したか、維持費はどうしているか、これからどうするつもりか。そういうことを順番に聞いてきた。

私は「売る気はないんですけど」と何度か繰り返した。そのたびに相手は「そうですか」とだけ言って、続きを聞いた。


査定額を聞いたとき、私は黙った。

なぜか、泣きそうになった。安かったからではない。高かったからでもない。ただ、胸がいっぱいになった。

「また夫と相談します」とだけ言って、その日は終わった。


それから3ヶ月、ずっと何かを考えていた。

夫に相談したかどうかも、正直よく覚えていない。ただ、自分の中で何かがゆっくり動いていた。

結局、売ることにした。


あのとき涙が出そうになった理由が、今もはっきりとはわからない。

ただ、「売ってもいいんだ」という気持ちがどこかにあって、査定額を前にしてはじめてそれに気づいたのかもしれない。

最初から売りたかったのかどうかも、よくわからない。

ただ、ずっと誰かに「それでいいですよ」と言ってほしかっただけなのかもしれない、とは思う。